日誌

2019年 地学部夏合宿 富士山

私たちは、7月30日から8月1日に、富士山で2泊3日の夏合宿を行いました。

富士山は、現在活発な火山活動は起こっていませんが、過去に何度も噴火している、いつまた噴火してもおかしくない活火山です。今から約300年前の1707年(宝永4年)12月16日~翌年1月1日、現時点で最後の富士山の噴火、宝永噴火が起こりました。また、噴火の49日前、同年10月4日に付近で宝永地震(推定マグニチュード8.6~9)が起こっており、この地震に誘発されて噴火したのではないかと考えられています。

そのころ、日本は江戸時代の中ごろで、徳川家の5代将軍、徳川綱吉が君臨していました。当時世間では綱吉の悪政で噴火した、などと言われたようです。

今回の合宿は、この宝永噴火をテーマにして行いました。

富士山周辺の地形図はこちら(外部リンク)

↑北側から見た富士山。この写真は一昨年の合宿で撮ったものなので、今年はこの撮影地点には行っていない。


 1日目は、富士山の東側にある御殿場口新五合目で、宝永スコリアと軽石の観察をしました。

スコリアと軽石は、共にスカスカで、文字通り水に浮くほどの軽い石で、園芸によく使われます。両者の違う点は、スコリアが黒っぽく、二酸化ケイ素(SiO2)の量が少ないのに対し、軽石が白っぽい色をしていて、二酸化ケイ素の量が多いところです。つまり、下の写真では左がスコリア、右が軽石です。これらがスカスカになるのは、マグマが地下深くから上昇する際、温度が下がるにつれて圧力も下がり、沸点が下がって水分が発泡したことによります。

宝永噴火の際は、まずが軽石が先に噴出し、時間が経つにつれてスコリアが噴出するように変化していった、よって噴出する岩石はデイサイト質(SiO2多い)から玄武岩質(SiO2少ない)になっていったと考えられています。

なぜ時間が経つにつれて二酸化ケイ素の量が変化したのか、それは結晶分化作用(温度による分離)によるもの、別々のマグマだまりから噴出したことによるもの、その両方によるもの などが考えられています。

 

↑宝永スコリアと軽石

 

↑地層発掘中、この場所の下側に御殿場口新五合目の駐車場がある。標高は1400mほど。地面が黒色だが、これは黒土の黒ではなくではなくスコリアの黒である。

 

↑地層は下にあるものほど古いので(地層累重の法則)、もとの地面の黄土色の層、宝永噴火の際最初に降った白い軽石の層、後から降った黒いスコリアの層と積み重なっている。


 2日目は、富士山の南東にある宝永火口の観察をしました。

宝永火口は、宝永噴火の際に形成された火口で、ここから火山灰、スコリア、軽石などが噴出しました。宝永火口は、富士山頂側から第1、第2、第3と3つあり、第2と第3、第1の順で噴火しました。

一番大きい第1火口は直径1300m、底から上までの高さは125mほどあります。また、宝永噴火の際には、富士山の側火山である宝永山が形成されています。

 

 ↑左の窪みが第1火口、右は第2火口、写っていないがさらに右に第3火口がある。このあたりの標高は2450mほどあり、埼玉県の最高峰、三宝山(標高2483m)とほぼ同じ。

 

↑写真中央右のピークが宝永山(標高2693m)。第2、3火口の形成後に宝永山が形成した。

 


 最終日の3日目は、宿周辺の地形地質の観察をしました。

 この御殿場市には、流れ山と呼ばれる小高い山がいくつかある場所があります。これは、今から約2900年前、富士山の山体崩壊の際、御殿場泥流という土石流のようなものが発生し、それが途中で止まってその場所に溜まったものです。山体崩壊を起こした理由は地震、水蒸気爆発などの振動だとされています。

↑流れ山をいくつか確認できる。現在、流れ山は神社となっていたり、そのままだったりしている。

 

↑ちょっと掘ってみたり、流れ山の周囲を回ってみたりしたが、発見はなかった。


 今まで、富士山の論文や資料を読む、観察するにとどまっていて、富士山が昔噴火したという実感があまりありませんでしたが、今回実際に現地に行くことによって、実感がわき、論文や資料の内容がよくわかってきました。大変充実した、そして楽しい合宿となりよかったです。この合宿で学んだことをもとに、富士山の知識を深め、新たな発見につながればいいです。


 最後になりますが、今回の合宿は、静岡県御殿場市の農家民宿「このはな」さんを利用させていただきました。お世話になりました。そして、ピザ作りや作物の収穫等、貴重な体験をさせていただきありがとうございました。

 ↑「このはな」の建物。周りは畑と田んぼ。