2024/11/8(金)生徒の話し合いを聞いて
3年生の論理国語の授業を見せてもらいました。熊野純彦氏の「言語と他者」を扱っており、生徒はグループに分かれ、スライドをつくることで内容を理解する、という意欲的な授業空間でした。
英語のwaterには、温度感がない印象があります。日本語の「水」には温度感があって、水そのものに「つめたい」という性質がくっついているといえます。英語で「熱いwater」と言えても、日本語では「熱い水」とは言いにくい。日本語では「水」と「湯」をどこかで区別(=異なるもの)して認識しているわけです。空から氷のようなものが降る現象も「ゆき」「みぞれ」「あられ」「ひょう」などと区別して認識します。
時間の流れを考えたとき、どこからどこまでを過去ととらえ、未来ととらえるか。古文の助動詞「き」「けり」は直接経験したか伝聞など間接的な経験なのかを分けています。現代日本語では「た」しかなく、表す意味の守備範囲が広がっています。文脈で読み分ける必要が出てきました。「2004年狭山市に『生まれる』」は過去を表しています。「大阪に着いたら『連絡します』」は未来を表します。
実際に自分の前にあるのは現在だけです。過去も未来も日本語という言語によって認識したものに過ぎません。連続しているはずのものやことを自分なりに区切って認識しています。使っている言語によって世界の「見え方」が変わってしまうということです。
生徒の使い方を聞いていると意味の守備範囲が特に広い「やばい」という形容詞(?)があります。このことばを常用し、何かにつけて「やば」で済ますことは「私からの世界の剥奪」されただけでなく「他者に対する〈もの〉の呈示」にもなっていない状況なのではないでしょうか。