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所沢高校食堂建て替えに伴う地盤調査
おしらせ
- 当記事では諸説ある(未確定な)内容について言及しておりますが、今回は5万分の1地質図「青梅」(2007)を参考にしました。
- この記事では専門的な用語が出現します。その説明はこのページの一番下に注釈として簡単にまとめてあります。
2020年11月9~13日に、本校の希望の鐘(合宿所)前で地質調査が行われました。
(職人の名前、電話番号は消してあります)
はじめに―本校の食堂
なぜ地質調査が行われたかというのはタイトルの通りですが、詳しく言うと、現在の食堂(の建物)は耐震基準を満たしていないということで、建て替えることになったようです。この建物は1970年完成で、今まで1度も耐震補強はされていません。ちなみに1970年の出来事は、大阪万博や三島事件、ビートルズの解散だそうです。
↑現在の食堂。
そんな食堂ですが、厳密にいうと建て替えというより移設するようです。ではどこに建てるのかというと、それがこの調査現場です。かつて講堂があった場所には現在、希望の広場と称する人工芝区域がありますが、それを半分はがし、そこに建てるようです。「わざわざ食堂を移設しなくても、壊した場所に建てるだけでいいじゃないか」という意見もあるかもしれませんが、この食堂は定時制の生徒が給食をとるのに使っています。壊してから完成するまでの間食べる場所がなくなってしまうため、移設となったのかもしれません。人工芝もかなりへたってきているとはいえ、まだできて3年ほどしか経過していませんが・・・。
食堂を解体した跡地をどうするのかは不明です。
↑校内配置図。
↑現在の状態。オレンジ色の柵の所が調査場所。
↑在りし日の講堂。2016年合格発表の時の様子(発表を見に来た人がたくさん写っていたため、編集)
一方、3号館は1962年、部室棟は1966年、体育館は1968年と、こちらもだいぶ年季が入っていますが、建て替えの予定はありません。
地質調査―ボーリング
地質調査にはいろいろな方法がありますが、今回はボーリング調査が行われました。ボーリング調査(もしくは標準貫入試験)というのは、地盤の固さを求めつつ地中の土砂を採取し、地盤改良の必要性を調べるものです。ちなみに、重いボールを投げて10本のピンに当てるゲームは「ボウリング」です。
この調査は、既定の重さの筒を打ち込み、ある深さに到達するまでの打ち込んだ回数を計測するものです。この回数はN値と呼ばれ、ふつう深さ1mごとに計測します。N値が大きいほど固い地盤を意味し、N値が50以上、5m以上連続する層になるとその地層は「支持層」と呼ばれ、マンション等大きな建築物の建設ではこの層を支持地盤とします。なお、一軒家ではN値は5以上あればよいようです。
ちなみに、ボーリング調査は費用がかなりかかるので、一軒家を建てる際は普通行われません。代わりに、より簡便なスウェーデン式サウンディング試験などを行いますが、これは鉄の棒を地面にねじこむもので、地下の土砂は採取できません。
↑ボーリングマシーンの全景。
↑ボーリング調査の穴。当然既に埋められているので、現在調査箇所を見てもなにもありません。
ボーリング試料
今回は当部の顧問が業者と交渉して、試料を得ることができました。試料は1mごとに計18本あります。これらは地学室の富士山の模型付近に並べてありますので、興味のある人は実際にご覧になるといいと思います。
↑ボーリング試料。この写真では、左上→右上→左下→右下 の順に地下1mから18mまで1mごとに並んでいる。
これを見ると、1m付近の表層では真っ黒です。これは、黒土、腐植土、黒ボク土などと呼ばれ、腐植(後述)を20%以上含むものを言い、今から1万年ほど前の縄文時代から現在にかけて堆積したものです。黒土は当地だけでなく、本校周辺の広い範囲で表層として分布していて、特別なものではありません。皆さんの家の庭の土も黒いと思いますが、まさにそれです。
黒土の成り立ちは、この層(腐植土層)が堆積した7~1万年前は最終氷期以後の温暖な気候で、植物に適した環境でした。そのため当時の表層であるローム層(後述)の上に植物が育つようになります。やがてそれは枯れて分解され「腐植」となり、それにまた火山灰などが堆積することでできます。黒土が黒いのは、この腐植によるものです。腐植が多いほど土は黒くなり、養分も多くなります。そんなわけで黒土は農作物の栽培に向きますが、柔らかく地盤沈下しやすく軟弱なため、建物の基礎としての地盤には向きません。
3m以降では、だんだんと色が明るくなっていくのが分かります。これは、ローム(ここでは関東ローム)または赤土と呼ばれ、シルト、粘土の含有割合が25~40%程度の土を指します。この層(関東ローム層)は、富士、箱根、浅間、赤城などの関東周辺の火山のテフラが堆積したもので、堆積年代が古い順に、多摩ローム層、下末吉ローム層、武蔵野ローム層、立川ローム層の大きく4つに分けられます。多摩ローム層は70~12.5万年前、下末吉ローム層は12.5~7万年前、武蔵野ローム層は7~4万年前、立川ローム層は4~1.2万年前に堆積したと考えられています。なぜこの4層に区分しているかというと、当初各ローム間には数万年単位で時間間隙がある、つまり不整合な関係と考えられていたためです。のちに各ローム層は基本的に整合関係だとされました。このため各ローム層の境界に意味はありません。
関東ローム層は、火山が噴火しそのテフラが直接堆積するか、別の場所に堆積したものが風で吹き飛ばされてそれが堆積(二次堆積物)するかしてできます。このため、火山が噴火していない時でもわずかに―つまり現在でも―堆積し続けています。ローム層が赤茶色っぽいのは、ロームに含まれる鉄分が風化により酸化したためです。ロームは養分が少ないため農作物の栽培には不向きで、一般的に嫌われますが、強度はやや高いため一軒家ではこれが支持地盤になります。逆に、ローム層がすぐ出てこない場合は、一軒家であっても出てくる深さまで地盤改良をする必要があります。
11m以降では礫が見られるようになります。これは所沢層という礫層であり、14~13.5万年前に堆積したと考えられています。この礫が河原の石と考えると、所沢層はかつての多摩川の跡でしょう。
礫層はN値が50を超える固い地盤が多く、これが支持層になるというわけです。
最後の18mでは、もはや岩をただ円柱形にくりぬいただけのように見えます。これも上と同じ礫層と思われますが、今までよりさらに固くなっているため、これ以上の掘削は行わなかったのでしょう。
どのような建物を建てるのか分からないため、食堂を建設する際どの深さまで地盤改良をするのかは不明です。
本校グラウンド裏の崖の地層
話は変わりますが、本校グラウンドの裏には崖があります(地形図)。なお、ここは近くの永源寺という寺の敷地であり、本校のものではありません。
5万分の1地質図「青梅」(JPEG4.2MB)を見ると、ちょうどこの崖で所沢層が切れています。先ほどの試料から、所沢層は崖の上の地表の地下11m以降に広がっていると分かりました。この崖は高さ12.6mであり、崖下の地面~地面から1.6m付近で所沢層が観察できます。
地質図の説明書(PDF45MB)によれば所沢層の上位には下末吉ローム層があるようです。その上に武蔵野ローム層、立川ローム層、腐植土層と続くわけですが、やはり観察できません。さらに、武蔵野ローム層は鍵層の東京軽石層を挟んでいるものの、これは崖下の地表より8.7m付近と、崖を登らねばならないため観察できません。
↑本校グラウンド南西方向下にある崖。左端に見えるのが永源寺。
↑ 崖の模式的な断面図。赤線が東京軽石層。各層の厚さは考慮していない。
沖積面、下末吉面など武蔵野台地の河岸段丘関連の話は「秋晴れの狭山丘陵周辺を巡る」という当部の記事と一部ダブっていますので、そちらをご参照ください。
まとめ
崖を観察してみると、ボーリング調査の試料通り、所沢層がありました。ボーリング調査の方は、そのうち県に柱状図と正式な試料が納められるようなので、機会があれば見たいと思います。
なお、本校ではかつて別件でボーリング調査をしたらしく、その柱状図が公開されています(PDF291KB)。詳細な情報はすべて消されているため、正確な位置等詳しくはよく分かりませんが、柱状図自体は完全なデータなので、興味があれば今回の試料と比べてみてください。
注釈
- 最終氷期・・・現在のところ最後の氷河期で、一般で言ういわゆる「氷河期」。
- 地盤改良・・・杭を打つ、固い土壌に置き換えるなど様々な方法があるが、一般的にそれなりに費用がかかる。
- 多摩ローム層・・・本来はさらに多摩Ⅰ、多摩Ⅱに細分化される。
- 下末吉・・・神奈川県横浜市鶴見区の町名。
- テフラ・・・溶岩以外の火山噴出物、具体的には火山灰など。
- ローム・・・ロームの定義はシルト+粘土の含有割合だけなので、堆積物がテフラかどうかは関係ない。関東ローム層の堆積物がたまたまテフラであったというだけ。
- シルト・・・砂より小さく粘土より粗いもの。日本語では「沈泥」。
- 地質図・・・地質の分布を表したもの。なお、「青梅」の範囲の地下にはほぼローム層があり、地質図にそれを表すと、ローム層だらけの図になるので、それは省略しより下位の地層が表現されている。
- 東京軽石層・・・箱根東京テフラ。箱根火山の由来で、噴出は 6~6.5 万年前。
秋晴れの狭山丘陵周辺を巡る
みなさんこんにちは、地学部です。所沢高校は現在学年末テスト期間で、生徒は勉強に励んでいます。修学旅行や文化祭は残念ながら中止となってしまいましたが、また部活動が再開できることを願って、およそ3か月前の記事を書きたいと思います。(これまで大変忙しく、公開が遅れてしまいました。)そのため、記事は当時の気分のまま綴りましたのでそこも楽しんで読み進めていただければと思います!
さて、地学部では2020年11月14日の土曜日に狭山丘陵生きものふれあいの里センター(埼玉県所沢市荒幡782、通称:いきふれ)主催で行われた自然観察会に参加してまいりました。狭山丘陵についての学習を行いましたので、写真を交えつつ、ご覧の皆さんにもご説明できればと思います。
<そもそも狭山丘陵とは>
「となりのトトロ」のモデルになったといわれている狭山丘陵ですが、そもそもどのようなものなのでしょうか。狭山丘陵は埼玉県入間市、所沢市、東京都の一部にまたがる東西に10km、南北に4kmほどの卵型をした丘陵です。70万年~60万年くらい前には、埼玉県入間市や飯能市にまたがる加治丘陵や、東京都多摩地方に広がる多摩丘陵と地続きで繋がっていたのではないかと考えられています。狭山丘陵は、武蔵野台地という荒川と多摩川の間に挟まれた関東地方の部分の、低地より一段高くなったところに位置しています。生きものや自然が施設や団体によって保護されており、休日にはしばしばイベントなども行われています。また、開発や住宅地化が進んでいる現在、貴重な緑が残っているここは住民の憩いの場といっても過言ではないでしょう。
【言葉】
山地・・・数百万年前に隆起した。丘陵・・・数十万年前の地形で少しずつ隆起。台地・・・十数万年前~三万年前くらいから形成された。低地・・・一万年前くらいから形成された。
<狭山丘陵の地層>
今回は「丘陵・台地とトトロの森」というタイトルの講座で、さいたま緑の森博物館(埼玉県入間市宮寺889-1)の案内所から、所沢高校で去年まで地学基礎の先生をしていた、正田浩司先生の解説で狭山丘陵を歩きます。
芋窪礫層
狭山丘陵は、頂上が富士山のように尖っておらず、比較的なだらかなのが特徴です。その特徴を生み出しているのが、芋窪礫層(いもくぼれきそう)と呼ばれる地層です。70万年~60万年前くらいに堆積したとみられていて、粘土質のようです。写真の地点では、およそ10mほどの厚さがあり、火山灰質の砂や泥も混じっています。
ニセ三つ組軽石層
火山が噴火して空から降ってきた軽石で出来た層です。火山灰などと一緒に噴出してきた軽石の数mmのものが堆積したそうです。他には三つ組軽石層というの40万年くらい前の層があります。礫の地層から地層の年代は把握できないため、このような軽石などの地層で時代が判断できるということです。新型コロナウイルスの感染防止のため観衆の人数を20人に制限していたため、写真も撮りやすかったです。一行は狭山丘陵を形成している地層を眺めつつ、稜線沿いを東進して、所沢市の「とことこ景観賞」にも入っている比良の丘を目指していきます。
<比良の丘>
しばらく上り坂を歩いていくと急に開けて、一面の青空が顔を出します。ここが比良の丘で、標高は155mです。70万年~60万年くらい前、多摩丘陵や加治丘陵と繋がっていた狭山丘陵は、芋窪礫層が堆積し、ほぼ平坦になっていました。その後、浸食で周囲が削られたため、狭山丘陵は現在の部分を残して孤立した状態になっています。この日は暖かく雲一つない秋晴れで、気分は最高でした。普段、ストレスのたまる学習の疲れや自分の想像通りに上手くいかない現実、日頃の鬱憤は吹き抜けていく風によって青い空の彼方へ消え去っていきそうです。丘陵の中には沢が見られたりするのですが、てっぺんには芋窪礫層が平らに溜まっているので先述のように頂上は平らに見えます。一時期は墓地になるという計画があったそうですが、所沢市によって一部は残され公園のような形で現在に至っているということです。ここでいったん休憩となり、オオタカのような鳥の姿も見られました。
ここから南東方向にカメラを向けると、早稲田大学所沢キャンパス(埼玉県所沢市三ケ島2丁目579-15)の敷地が見えます。早稲田大学は、所沢高校の卒業生の方が進学している大学のひとつでもあります。そして、写真では見ませんが砂川堀の源流にもなっている堂入池(どういりのいけ)があります。砂川堀はここを起点として所沢市の小手指駅の近くを通過、北上し、三芳町、ふじみ野市、富士見市を通って新河岸川に入り、やがて荒川に合流します。
晩秋のカマキリさん、こんにちは。今日は暖かくていい天気ですね。生きものたちも冬の準備を着々と始めているようです。私たちもテストの準備を始めなくては...。
比良の丘を出た一行は二者面談や幼稚園の頃の話に花を咲かせつつ、参加者の方との親睦を深めつつ(ソーシャルディスタンスを意識しながら)次の目的地に向かいます。
<丘陵周辺の施設>
金仙寺(埼玉県所沢市堀之内343)は平安時代に創建されたお寺です。大きな枝垂桜がシンボルで、春には美しい花を咲かせ、やって来た人を癒しています。この周辺では三ヶ島家、中家という2つの大きな家系が強い権力を握っていたということです。ここでひと休みしていると、お寺の静寂な環境とポクポクとした木魚の音が一行を包みます。
次にやってきたのは、中氷川神社(埼玉県所沢市三ケ島5-1691-1)です。境内にはご神木のけやきの木が堂々と鎮座しています。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折に立ち寄って大己貴命と少彦名命の両神を祀った、と伝えられています。室町時代までは「中宮」、江戸時代は境内が細長いことから「長宮明神社」と呼ばれました。所沢出身の女流歌人、三ヶ島葭子(みかじまよしこ)の歌の碑も置かれています。三ヶ島葭子については、付近にある三ヶ島まちづくりセンターで詳しく知ることができるようです。
春の雨 けぶる欅の梢より をりをり露の かがやきて落つ
三ヶ島は、木に体を預けて雨の雫を手で受け止め、春の雨によって、ケヤキの梢から落ちる輝く雫の様子を詠みました。彼女の作品は自然・生活・自分自身の心を自分の思うままに詠んだ歌に定評があります。
中氷川神社を出発して茶畑を眺めます。所沢高校でもマイプロジェクトの中で狭山茶を使ったスイーツを開発するなど、所沢市のまわりに茶畑はたくさんあります。しかし、クラスで聞いてみると急須を使って茶葉からお茶を淹れる人は、かなり少なくなったようです。ペットボトルでお茶を飲むのも美味しいですが、ときには急須を使ってのんびりとお茶を淹れ、ゆっくりとした時間を楽しむのもいいですね。
先ほどご紹介した、砂川堀です。流れはかなりゆっくりで、令和の時代の流れとは逆行しているようです。
こちらが台地です。写真ではあまり角度がわかりませんが、まわりより一段高くなっています。そして反対側は一段低くなっています。目の前には狭山茶の畑が広がっています。
<武蔵野台地について>
午後からは講義となり、正田先生と元早稲田大学自然調査室教授の大堀先生という方からお話を頂きました。武蔵野台地は武蔵野扇状地とも言い、浸食をしつつ堆積をして形成されてきました。狭山丘陵を作っているのは先述した通り、芋窪礫層です。腐礫(くさりれき)という風化しやすい作りになっているそうです。その下には狭山層という層が含まれ、入間川の方に向かえば仏子層という層につながっています。この様子はスタジオジブリが制作した映画、「となりのトトロ」のモデルになったともいわれています。狭山丘陵は段丘地形といって階段状の地形から成っています。このような階段状になる理由は、気候の変化によるものです。ここ260万年の間に、地球は幾度かとても寒くなる「氷期」と温暖化が進む「間氷期」を繰り返しました。氷期にはたくさん雪が降ったり水が凍ったりして陸上に氷河がありました。この際海面や茨城県北西部の古河地区や東京湾のあたりが沈降しましたが、やがて「間氷期」になるとその氷河もとけて水になります。海水は上昇し、関東山地の隆起もあって次の図の階段のような地形ができました。
多摩面とよばれる狭山丘陵が属する部分、下末吉面と呼ばれる所沢市街が属する部分、立川面と呼ばれる主に東京都立川市付近の北西ー南東方向に延びる地域が属する部分、武蔵野面と呼ばれる埼玉県南東部~東京都にかけて伸びる地域が属する部分の4つです。所沢高校には下末吉面の上に建っているのですね。このほかに武蔵野台地の植物の分布や当時の人びとの生活様式などについても話を聞きました。地学部としては地層をより詳しく知り、民俗的な歴史も知ることができました。解説していただいたお二人の先生方、ありがとうございました。
<まとめ>
今回の狭山丘陵でのフィールドワークは、狭山丘陵の概要、武蔵野台地の成り立ちを知るとともに、私たちが通う所沢の周辺の地層やかつての風景を知ることができたものだったと思います。新型コロナウイルスの影響で部活が休止になっていることもあり、屋外で自然とふれあって地面に潜むロマンを感じる機会も少なくなっているのですが、いずれまた別の地域のことについても調べてみたいと思っています。まだまだ身の回りにも知らないことがあふれていますから、自分にとって関係のないような分野でもかんたんなことなら理解できることもあります。難しいことを徹底的に研究するのも調査の醍醐味の一つですが、知識的なことを軽く頭に入れておくだけで、普段の生活に少し充実感が加えられるかもしれません。コロナ渦で外出しづらい今ですが、感染対策を徹底して自然とふれあってみてはいかがでしょうか。
(コロナウイルス対策)
今回のフィールドワークでは、以下の事項を徹底して行いました。
- 部員は自宅を出発する前に検温を行いました。
- 移動先での手洗いをこまめに行いました。
- なるべく観察するとき以外は密集しないように気を付けました。
- マスクを着用し昼食はソーシャルディスタンスを保ってとりました。
- 現地との移動は公共交通機関を極力使わないように計画しました。
※現在、所沢高校では一部の大会前の部を除き部活動は休止しています。
北風吹く夜の空を見上げて
みなさん、こんにちは。地学部です。ここのところ何度もホームページに記事を投稿していますが、現在はコロナウイルスの影響で部活動は休止となっています。このページを書いている人がかなり忙しかったため、2学期の出来事を今ごろになって掲載しているになります。古い話で申し訳ありません。
さて、今回の記事では2020年12月17日に行った天体観測と称した部員の望遠鏡の操作練習の様子をご覧いただきます。所沢高校の3号館4階にある地学室には天体観測にまつわる道具もたくさん置いてありまして、望遠鏡もそのうちの一つです。文化祭になると入り口近くに展示したりしておいでになった方にお見せしたりするのですが、今年は文化祭が中止となってしまったので、ここで使っている様子を紹介しようと思います。
所沢高校の屋上から南方向を望むとこんな感じです。写真のやや左上にぼんやりとですが富士山が見え、その右側にはおよそ4km離れたメットライフドームの灯りが見えています。
午後5時過ぎ、望遠鏡の準備をしていろいろなところを見てみます。あちこちに星がありますが、望遠鏡に付属している機械を使えば、望遠鏡が目的の星の方角に向いて観察をサポートしてくれます。望遠鏡の準備についてはここでは書きませんが、部員も最近観察していないものであいまいになってしまいましてかなり時間を要しました。望遠鏡の機械を使うために方角を合わせるのですが、かなり難儀でした。
キャノン株式会社の一眼レフカメラで撮影した月の様子。
ビクセン株式会社の望遠鏡で撮影した月の様子。およそ三日月の形です。
少しカメラの明るさを調整しました。一眼レフカメラを望遠鏡に取り付けて撮影しています。
次はどの星にしようかな
あぁ、撮影に失敗...
真ん中に薄く映っている星を撮影したかったがやや距離が遠く断念。なかなか撮影が上手くいかなかったです。今回は極寒の北風が吹く中で行ったので、このままだと風邪をひいてしまいそうでした。冬の大三角の星も見つけましたが、撮影には至らず。冬休み前という時期でしたが、相当寒波が押し寄せていたのでしょう。今回の観察はここまでとなりました。これではあまり内容が充実していないので、2019年に撮影した土星の写真がありましたのでこちらも公開したいと思います。
輪があるのがわかりますか?土星には輪があるわけではなく、実際には小さな粒子で氷と塵が混じっていると考えられています。
地学部では部活動が再開したら、これからも定期的に星空の観察をしてみようと思っています。天体に興味をお持ちの方もぜひ地学部にお越しください!ちなみに地学室では教室後方のプラネタリウムでいつでも星空を眺めているような気分を楽しむこともできますよ。
加治丘陵メガソーラー・サッカー場建設予定地の地層
はじめに
我々地学部は、昨年度まで富士山宝永噴火の研究を中心に活動していましたが、COVID-19により、活動の大幅縮小を余儀なくされたため、富士山での現地調査、外部機関での化学分析等が行えずにいます。また、この研究の中心となっていた3年生の引退、大変複雑化する研究内容により、我々自身が理解できなくなってきたため、2019年2月の埼玉大での発表をもって事実上途中終了しています。代わって、このような状況下で遠出をしなくて済む、そして難易度の高い研究を伴わない、ということで、最近は狭山丘陵、加治丘陵、入間川など地元の地質について勉強しています。
その一環として今回、2020年10月4日の午前中は、入間市仏子にある入間川の河川敷で地質調査を行いました(この内容については、別記事を参照してください)。午後は、この河川敷からほど近い、加治丘陵の一角「飯能市阿須山中」で巡検を行いました。この記事ではそちらの方の記録を載せます。
今回の概要
加治丘陵は、東京都青梅市、埼玉県入間市、飯能市の3市にまたがる丘陵です。西側の青梅市成木、小曽木付近で関東山地へと移り変わっています。ここが陸の孤島ともいわれる狭山丘陵との大きな違いです。
その加治丘陵の一角、飯能市阿須山中(←は地名、クリックで建設現場周辺の地形図)では現在、飯能市主導によりメガソーラー発電所・サッカー場が建設されています。しかし、市民団体がそれに対し「環境破壊だ」として反対の意見を表明しています。今回、我々は当地の現地観察をしました。
当計画については、上記のリンク、飯能市のホームページ・広報誌 等を参照ください。
なお、観察した当時(昨年10月)はまだ計画の段階でしたが、その翌月から工事が始まっています。そのため、現在は以下の写真のような光景は見られず、そもそも当地の立ち入りもできません。本来であれはすぐに記事を上げるべきですが、諸般の事情により、この記事とこれ以降の記事の作成、公開が大幅に(3か月程度)遅れています。ご了承ください。
現地観察の記録
阿須の交差点を南(入間市)方向に進み、すぐの長澤寺の丁字路を右に曲がって直進すると、下の写真の場所にたどり着き、また少し進むと左側に建設予定地が見えてきます。
↑建設予定地の地形(国土地理院の標高データDEM5を元にカシミール3Dで作図)。中央の赤い線で囲まれた領域が予定地。上が北方向。右下の線は八高線と県道。
↑サッカー場への取り付け道路の建設が始まっている。
↑送電線鉄塔巡視路兼ハイキングコースを行く。道の両側とも建設予定地。
↑谷底へ降りる。ここから先は建設予定地内部。
↑タヌキ?の巣穴。中にタヌキがいるのかどうかは不明。
当地は山林なので当然、上の写真のように谷と尾根が存在します。しかし、サッカー場は平らなので、両脇の尾根の土砂を削って谷に落とし、谷を埋めて平地にする(このようにして造成した例としては、同じく飯能市の美杉台、その奥の大河原工業団地などがある)わけですが、一般的に尾根だった部分より埋めた部分のほうが地盤が弱いと言われています。例えば川原に大きめの穴を掘って埋めて、数年後また来てみると、埋めたはずの穴が復活することがあります。
この記事をご覧になっているあなたが、今どのようなライフステージにいらっしゃるのかは分かりかねますが、もし新しく土地を買う際は、そこがかつてどんな場所であったのか、古い地形図や航空写真、土地利用図などをあたるぐらいはしたほうが良いかもしれません。場合によってはその場所の地名(例:池・川・沢・海・渡・流・湘・島・崎・泉・谷・田・鷺・萩 などは水を表す)も参考になる可能性があります。土地のような超高額の買い物は、失敗すると後で大変なことになるかもしれません。
↑谷底の無名の沢。工事が始まれば埋められる。
ここでは飯能礫層を発見しました。飯能礫層は、今から200万年ほど前に、当時の河川によって関東山地から運ばれてきた礫が堆積したものです。・・・それ以上の説明については午前中の記事を参照願います。
↑崖を掘って地層を観察する当部の前顧問。
工事は始まっていないので、今は何の変哲もない山林ですが、場所によっては建設予定地(の境界線)を示す、黄色や赤色のスズランテープが張られています。
↑テープが張り巡らされている。中央にU字溝が設置されているが、この工事とは関係ない模様。
↑下山後。左から、建設予定地->唐沢川->市道->ラジコンサーキット場。手前が県道方面。今は、唐沢川より左は木で覆われているが、計画通りだと堤防のようなコンクリートの壁が出現し、その向こう側がサッカー場となる?
まとめ
計画内容と実地観察からすると、環境破壊という意見があってもやむを得ないと思いました。もちろん、放置された山林も問題があるとはいえ、当地はかつて林業で栄えた人工林・・・というわけではなくほぼ自然林です。入間市、青梅市側の加治丘陵のように、(事実上の)自然公園化、というわけにはいかなかったのでしょうか。自治体が自然、森林に対しどのような価値観を持っているかで、それらの行く末は変わってきてしまうということになります。
狭山丘陵のように保護されすぎて(都の水源というのも影響してはいます)あちこち鉄条網、立入禁止というのもどうかと思いますが、やはり保護されずにどんどん消える山林というのは残念極まりません。
メガソーラー問題はこの飯能だけでなく、北海道から九州まで全国各地で起こっています(近隣では日高市など)。
今後も加治丘陵の山林は消えていってしまうのでしょうか。
参考文献
当問題の概要・・・飯能市、市民団体のそれぞれのHPに掲載されているPDF等の資料
地層の説明・・・入間市博物館・入間昔むかし アケボノゾウの足跡(2003)
地学部広報紙「羊歯と石炭紀」第2号
みなさんこんにちは、地学部です。
夏の暑さも少しずつ収まり、
過ごしやすくなってきました。
所沢高校では3日に体育祭が終わり、
2学期の勉強を忙しく取り組んでいるところです。
さて、地学部では先日発行した
羊歯と石炭紀(しだとせきたんき)の
第2号を作りました。
今回は、9月によく見える星座について書きました。
下記に貼っておきますので、
是非ご覧ください。
合宿や星空の観察に行きたいのですが、
今年はまだ行けていないので、
コロナウイルスに気を付けて
どこかへ行こうと計画しています。
今後の更新も楽しみにしていて下さい。
ダウンロードはこちらから↓
ご覧になるにはAdobe Readerが必要です。
http://www.adobe.com/jp/products/acrobat/readstep2.html
お持ちでない場合はこちらからダウンロードしてご覧ください。
入間市の鍛冶
こんにちは、地学部です。今回は8月2日の日曜日に埼玉県入間市で行った活動について書いていこうと思います。
コロナウイルスで自粛が続きましたが、今回は感染防止を徹底して屋外での活動です。
この日は、埼玉県入間市根岸にあるお茶屋さん「中島園」さんに伺い、本物の刀を見せてもらいました。
昭和40年代に作られた刀ということで、柄の部分は江戸時代からのもので市の文化財に認定されているそうです。
当日は地学の研究会の皆さんに同伴させていただき、この刀を見せていただきました。
お茶屋さんということでご主人に淹れていただいた温かいお茶を片手にお話を伺いました。ご主人が刀を作るのを依頼した際に、鍛冶屋さんが埼玉県入間市仏子の沢で砂鉄をとっていたということを聞いたそうです。刀を作った方は今は消息不明になってしまっているそうですが、砂鉄をとる道具が残っていたことから、とっていた砂鉄を混ぜて刀を作った可能性もあるのではないかと考えさせられたというのです。詳しい証言はあまりなく、謎が多いという話でした。
その後、我々は入間市博物館「アリット」へ行きました。そこで学芸員の方に聞いてみると、その砂鉄は「入間砂鉄」と呼ばれ、刀を作るにしては適しておらず、仏像などに向いているということでした。博物館では砂鉄から刀を作る取り組みを行ったことがあったそうです。その時は失敗したため、それが行われていたとは考えにくく、砂鉄が刀に混ぜられていたとは思えないそうです。
砂鉄は、磁石に引きつくことでわたしたちもよく知ることですが、刀の一部として使われていたとすれば、驚きですね。謎が多いこの研究に同伴させていただいたわけですが、続くかどうかはわかりません。
訪問した入間市博物館「アリット」
3年生の引退
みなさん、こんにちは。地学部です。また更新が滞ってしまいましたが、再び更新を少しずつ再開していけたらなと思っております。今年度はコロナウイルスの影響で活動できることに限りがありますが、できる限りの活動をしていければいいと思います。
さて、3年生の引退式を行いました。様々な場面でお世話になった3年生ですが一旦の区切りとして3年生からあいさつを頂き、新しい部長がこれからの部活の在り方を述べたりしました。そんな堅苦しいものではありませんでしたので、和気あいあいと過ごしているうちに時間が過ぎていきました....
そして地学部は6月から新たに1年生を1名迎え、合計3名となりました。部員数が少ないので、地学に興味のある方は是非地学室にお越しいただければと思います。今後はプラネタリウムや望遠鏡の操作などを覚えて多様なテーマで研究や調べ学習をしていく予定です。3年生の皆さんありがとうございました!
↑3年生、部員、顧問の先生で最後に1枚!
理化教育研究発表会
私たちは、2月8日に、国立埼玉大学で行われた理化教育研究発表会に参加しました。
↑埼玉大学
理化教育研究発表会とは、 埼玉県高等学校理化研究会が主催する、高校の理科系の部活が自身の研究を発表する場で、年に1回この時期に行われています。この発表会では、順位はつかず、上位の大会(例・関東大会、全国大会など)はありませんが、毎年多くの団体が参加しています。
今回、私たちは、「富士山 宝永噴火(1707年)のテフラ観察から噴火の様子を探る」と題し、昨年の夏休み合宿のまとめとして宝永噴火に関する発表を行いました。合宿、宝永噴火については以前の記事をご参照ください。
地学部初の試みとして、今回発表したポスターをPDFにしてダウンロードできるようにしました。実際のポスター(A0版)は今学期いっぱいまで本校1号館と2号館の2階渡り廊下に掲示する予定ですので、在校生の皆さん、来校された方はそちらを直接ご覧頂ければ幸いです。
ポスターを直接ダウンロードできるようにしたため、ここでは今回の研究の詳しい説明は省略させていただきます。ポスターをご覧になって「意味不明だ」「何を言いたいんだ」などと思われた方は地学部員に直接お尋ねください。
注意事項
- PDFを閲覧できる環境(Adobe Readerなど)が必要です。
- 著作権は我々地学部に帰属します。
- 無断転載は禁止です。悪用しないでください。
また、ポスターに載せきらなかった図は、当日は下の写真のように説明のつど紙に描いていましたが、その図もダウンロードできるようにしました。合わせてご覧ください。
発表会当日
開会式の後、午前は、ポスターによる発表でした。
↑図を描きながら説明する部長。一番左のポスターが我々のもの。
午後は、パワーポイントとプロジェクタを用いての発表でした。
↑「宝永スコリアの推移」について説明する副部長兼会計。
↑部長は頑張って白板に噴火モデル図を描いてみたものの、薄暗いのでおそらく後ろの方の人には見えない・・・(この写真は感度を高くして撮影しています)
この後、閉会式を行い、終了しました。
反省会
週が明けた月曜日の放課後、反省会を行いました。挙がった内容は
- パワーポイントに噴火モデルを説明するアニメーションを入れた方がよかった
- ポスター自体に噴火モデルの簡単な図を入れた方がよかった(ポスターが文字ばかり)
- 要旨プリント、パワーポイントを作り始めるのが遅すぎた
- いろいろ詰め込んだため発表内容が全体的に複雑怪奇になっている
- 発表前日に初の発表リハーサルをしていた(やるのが遅い)
- 発表前日になぜかパソコンのモニターが寿命を迎え故障し、準備がさらに遅くなった
- 部屋が暗くてよく見えないのに思い付きで発表中白板に噴火モデルの図を描き説明しようとした
- 北朝霞駅のバス停の場所を調べておらず、迷って遅刻した
- ポスター発表の際に直接図を描きながら相手に説明、というのはよかった
でした。反省点は多いですが、失敗あってこその成功ということで、次回に生かせればいいと思います。また、ほかの団体の発表からいろいろなことを学べました。
この富士山の研究は今回で一区切りをつけるか、それとも継続するかまだ検討中ですが、いずれにせよ今学期の残りは富士山とはお別れして、天体の方をメインに活動しようと思います。我々は新学期までに何とかしてプラネタリウムの説明をマスターせねばならないのです・・・。
↑本校屋上から見える富士山とメットライフ(西武)ドーム
地学部 長瀞巡検
私たちは、11月24日日曜日に、長瀞で巡検(フィールドワーク)を行いました。
長瀞は、埼玉県秩父地方にある、言わずと知れた観光地です。一般には、かき氷屋さん、ライン下り、岩畳などで有名ですね。地学の分野でも、長瀞は重要な場所です。当日は、雨の予報でしたが、幸運にも雨は朝までに止み、良い天気のもとで行えました。
↑甌穴のある場所(後述)から見た荒川。奥が上流―秩父市街地方面、中央の山は破風山。左下にライン下りの船がちょうど川下りしているが、今朝までの雨で川の水は茶色く濁っている・・・
秩父鉄道上長瀞駅に集合後、初めに荒川の河原に降り、周辺にある岩石の観察をしました。なお、今回回った場所は、地形図の通り上長瀞~親鼻周辺であり、岩畳のほうではありません。岩畳はこれより1.5kmほど下流にあります。
下の写真には緑色っぽい岩がたくさん写っていますが、これは緑色片岩という岩で、岩畳の岩と同じ岩です。緑色片岩は、結晶片岩の一種で、玄武岩、凝灰岩、砂岩等さまざまな岩石が変成作用(200~500℃の温度と2*103bar~104barの圧力)を受けてできた変成岩です。身近なところだと日本庭園の庭石によく使われます。
参考情報1―――――――――
変成作用とは、地中深くで岩石に温度や圧力が加わることによって化学変化が起き、違う岩石(変成岩)になることで、ほとんど固体の状態のままで変化します。
結晶片岩は、薄く板状にはがれやすいことが特徴で、広い範囲で起こる変成作用によってできた岩、つまり広域変成岩の一種です。分類を整理すると 岩石->変成岩->広域変成岩->結晶片岩->緑色片岩 となります。
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なお長瀞は、中央構造線の南側にある、三波川変成帯という関東~九州の長さ1000kmの結晶片岩を主とする変成帯(変成岩が帯状に分布しているところ)にかかっていて、岩畳や下の写真の緑色片岩はこれが地表に露出したものです。広域変成作用は、プレートに関連して起こることが多いので、変成帯もプレート(フィリピン海プレート)の境界にそってあります。
参考情報2―――――――――
三波川は群馬県藤岡市を流れていて、埼玉県/群馬県の県境にある下久保ダム(利根川水系)の少し北にあります。このダム湖である神流湖には、どこかで聞いたような名前の「ひょうたん島」という無人島があり、実は海無し埼玉県にも島はあります。
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↑荒川の河原。奥に見えるのが、秩父鉄道の鉄橋(奥が上流側)。川の水面は中央左に少し見えるが、やはり水は茶色・・・
下の写真は、虎岩と呼ばれている幅15mほどの岩です。虎の模様に似ているのでそのような名がついています。しましまの黒い部分は結晶片岩(スティルプノメレン)で、緑色片岩に似ていますが、より高温高圧にさらされているので、褐色です。白い部分は主に方解石で、岩の割れ目を埋めた部分です。地中深くで高圧を受けて折り重なったためにこのような模様になっています。
虎岩では、このしましま模様以外にも、小褶曲や黄鉄鉱を観察できました。褶曲というのは圧力を受けて地層がぐにゃっと曲がっていることです。黄鉄鉱は鉄と硫黄からなる鉱物で、金色っぽく見えるのでよく砂金と間違えられます。
↑虎岩。
また、この虎岩がある河原の入り口には、下の写真の通り歌碑があります。これには、「銀河鉄道の夜」「春と修羅」等の作品で有名な宮沢賢治が、自らが所属する盛岡高等農林学校の巡検で、1916年に訪れた際に虎岩を詠んだ歌
つくづくと「粋なもやうの博多帯」荒川ぎしの片岩のいろ
が刻まれています。
↑宮沢賢治の歌碑(写真は一部加工しています)
次に、やや上流へ移動し、ポットホールの観察をしました。ポットホールとは、甌穴(おうけつ)とも呼ばれ、岩の割れ目やくぼみなどに石が入り、中でそれが水流によって転がり、周りを削っていって大きくなった穴です。今この場所は川面よりかなり高い位置にありますが(左上に河原が見えます)、昔々は川底だったということです。甌穴は、長瀞以外でも全国各地でみられますが、長瀞にあるものは他と比べて大きめです。
またここには、珍しく貴重な岩石である紅簾片岩があります。これも結晶片岩で、紅簾石、石英、白雲母等が含まれていて、紅簾片岩自体はチャート、マンガンがもとになっているようです。この写真ではあまりきれいに見えませんが、本当は美しい赤っぽい色なので、建材に多く使われます。
↑ポットホールと紅簾片岩。左上の人間との大きさに注目
↑紅簾片岩
参考情報3―――――――――
上の2枚の写真ではレンガや加工された岩などの人工物が見えますが、ここには2代目の親鼻橋(1902~1956)の橋脚があったようです。3代目である現在の親鼻橋(1957~)が完成した後撤去されましたが、このように旧橋の痕跡がいくつかあります。
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また、この付近には秩父鉄道の荒川橋梁(最初の画像で奥に写っている)があり、ちょうど石灰石を積んだ貨物列車が通過するところを見られました。この石灰石は、群馬県多野郡神流町の叶山鉱山で採掘されたものと思われます(武甲山のほうは本日休み?)。この後、熊谷にあるセメント工場に運ばれ、セメントの材料として使われるようです。
↑先ほどからちらっと出てきている荒川橋梁。貨車に積まれている白い3つの山が石灰石。
秩父農協の直売所で昼食後、先ほどのポットホールの対岸で、砂金採りをしました。砂金が重いことを利用して、溝が掘られている皿(パンニング皿)に川の砂を水ごといれたものを振る→砂利と水をこぼす→水を入れる→皿を振る・・・を繰り返し(パンニング)ていくと、溝に砂金がたまることがあります。当然、簡単に金が手に入るわけはないので、砂金はなかなか採れず、採れても小さな粒1~2こぐらいです。全員で一生懸命パンニングをして、残った砂ごと持ち帰り、ただいま部活で観察しています。見つかったらここに追記します。
↑一生懸命砂金を探している部員たち。彼らが持っている黒いものがパンニング皿。
最後に、上長瀞駅近くの県立自然の博物館を見学しました。(ネタバレになりそうなので、内容と写真の掲載は控えます。気になった人は実際に現地へ行って見学してください)
↑窓ガラス越しに微妙に見えるサメのようなものはカルカロドンメガロドン。左右上の窓ガラスに貼ってある2羽の鳥はオオタカ?
この後、長瀞駅に到着し、巡検は無事終了しました。
今回の巡検では埼玉県民にとって身近な長瀞についてよく勉強できました。理科の教科書にはハワイや釧路湿原、富士山など有名な場所ばかり載っていて、長瀞を扱っているものはあまりないですが、このような場所こそ調べてみると面白いことがいろいろ見つかります。皆さんも、長瀞をただの観光地としてではなく、地学の観点で見に行ってはどうでしょうか。もちろん、埼玉県には長瀞以外にも興味深い場所はたくさんあります。地学部は、これからもいろいろな場所に巡検に行く予定です。
所高祭
みなさんこんにちは、地学部です。
2019年9月7日と9月8日、所沢高校では毎年恒例の所高祭が行われ、
多くのお客様にお越しいただきました。
地学部では「ほしヲふしぎ発見!」と題し、企画展示とプラネタリウム紹介を
おこないました。総勢252名の皆様にお越しいただき、盛況となりました。
↑ 地学部では、鉱物の展示や宇宙の太陽系の再現、富士山の噴出物の分布の紹介、地震計、恐竜についてなど
多種多様な展示を行いました。地学室には専門的な機械がたくさんあります。
↑ 地学室の後方には、プラネタリウムがあります。
15人ほどが入ることができ、ちいさな子供たちから保護者の方まで多くの方に
秋の星座について説明させていただきました。
↑ 台の上に並んでいるのは恐竜たちです。
恐竜に関する説明書きは直前に準備しました。
↑ 太陽系の惑星のモデルは重さと大きさが実際の日と同じになっているので、
質量感を体感することができます。
地学部では来年も企画展示を行う予定です。
文化祭にご来校いただいた皆様、誠にありがとうございました。