校長日誌
【全日制】令和8年度 入学式式辞
武蔵野の面影を残すここ所沢の地に、春の息吹が力強く感じられる今日この頃。本日、ここに保護者の皆様のご列席を賜り、令和八年度埼玉県立所沢高等学校入学式を挙行できますことは、本校教職員一同、大きな喜びであります。ただいま入学を許可いたしました357名の新入生の皆さん、入学おめでとうございます。難関を突破し、自らの意志でこの「所高」の門を叩いた皆さんの瞳には、未来への希望と、少しの緊張が宿っていることでしょう。皆さんの入学 を、心から歓迎いたします。
(混迷の時代を生きるということ)
さて、皆さんが今日から踏み出すこの三年間は、どのような時間になるでしょうか。 目を外に向けると、現代社会はまさに「正解のない問い」に溢れています。加速する気候変動、絶えない紛争、そしてAI技術の爆発的な進化。数年前の常識が、翌日には塗り替えられるような、混沌とした時代を私たちは生きています。
「自分一人に何ができるのか」——そんな無力感に襲われることもあるかもしれません。しかし、私は確信しています。この混沌とした課題を解決する鍵は、既存の枠組みに囚われない、若い皆さんの瑞々しい感性と、自由な発想の中にこそあるのだと思います。
(三年後に手にする「力」とは)
私はここで、皆さんに問いかけます。「三年後、皆さんはどんな姿でこの所高を巣立っていきたいですか」本校が皆さんに期待するのは、単なる知識の習得ではありません。この三年間で、以下の三つの力を磨き上げてほしいと願っています。
1「思考力」と「創造力」: 溢れる情報に流されるのではなく、「なぜ?」と問い直し、自分なりの答えを紡ぎ出す力です。
2「多様性を認める寛容さ」 異なる背景や意見を持つ他者と対話し、摩擦を恐れずに協働する力です。
3「自律的に行動する力」 所高の伝統である「自主自立」を体現し、自分の人生の責任を取る勇気です。
これらは、AIには代替できない、人間ならではの力です。
(所高という「実験場」を遊び尽くせ)
所沢高校は、自由な校風で知られています。しかし、ここでの「自由」とは、単に何でもしていいということではありません。「自ら考え、判断し、その結果に責任を持つ」という、厳格な自己規律を伴うものです。失敗を恐れないでください。この三年間を、人生の壮大な「実験」の場だと捉えてください。行事で、部活動で、そして日々の授業で、大いに議論し、ぶつかり合い、時には挫折するかもしれません。その試行錯誤のプロセスこそが、不透明な世界を生き抜くための、皆さんだけの武器になるはずです。
(結びに)
保護者の皆様、お子様のご入学、誠におめでとうございます。大切なお子様を、本日より本校でお預かりいたします。私たち教職員一同、一人ひとりの個性を尊重し、その可能性を最大限に引き出すべく、全力で支援してまいる所存です。家庭と学校が手を取り合い、共に成長を見守っていければ幸いです。
新入生の皆さん。皆さんの発想が、誰かを救う手助けになるかもしれません。皆さんの言葉が、世界を変えるきっかけになるかもしれません。今日から始まる三年間が、皆さんの人生にとって最も熱く、最高の時間となることを心から祈念し、式辞といたします。
令和8年4月吉日
埼玉県立所沢高等学校 校長 井上 輝也
【定時制】一杯の水から未来を編む
定時制の令和8年度 始業式 校長講話です。
皆さん、こんばんは。新しい年度の始まりに、まず皆さんに一つの問いを投げかけたい。今、私の手元には、何の変哲もない「一杯の水」があります。ただの無色透明な液体です。
しかし、皆さんがこれまで勉強してきた、あるいはこれから勉強する「知識」を使うと、この水の見え方は変わります。想像してみてください。
ある者にとって、これは渇いた喉を潤すだけの飲み物かもしれません。しかし、世界に目を向ければ、この一杯が手に入らないために命を落とす子どもたちがいる。その現実に気づくのは「社会」の視点です。あるいは、この水を分子レベルの化学式 H2Oとして捉える感性。その構造を理解し、応用する力が、やがて難病に苦しむ母親を救う新薬の開発へと繋がるかもしれない。それは「科学」が持つ可能性です。たった一杯の水から、アフリカの荒野を、あるいは白衣を着て試験管を振る将来の自分を連想できるでしょうか?
この「連想する力」こそが、学びです。学びとは、単に知識を詰め込む作業ではありません。目の前にある学びが将来の大きな職業に繋がる可能性があります。知識があるからこそ、私たちは「今、ここ」という狭い教室から抜け出し、遠く離れた誰かの痛みに共感できるのです。すばらしいと思いませんか?
定時制で学ぶ皆さんは、日中、社会の厳しい現実に身を置いている者も多いでしょう。仕事で流す汗、人間関係の葛藤。それらも尊い経験で学びです。そこへ「学校での学び」も加えてほしいと思います。知識は、皆さんの進路選択の幅を広げる武器になります。「これしかできない」というより「これも、あれもできる」に変えてくれるのが学びです。
一杯の水からたくさんのストーリーを連想できる豊かな想像力があれば、皆さんの未来はどこまでも広がっていきますよ。この一年、もちろん楽しく勉強して、可能性を広げて、未来をさらに明るくしましょう。
令和8年度が始まります。みんなで先生たちと一緒に新しい一歩を踏み出しましょう。
【始業式から】自ら環境を創り、共に高め合う1年へ!
皆さん、おはようございます。令和8年度が始まりました。
新しい年度のスタートにあたり、まず皆さんに問いかけます。「この一年、君たちは、何を大切にして過ごしますか?」目標を持たず、なんとなくスタートを切るのはやめましょう。目的地がなければ、1学期の終わりには迷いが生じ、2学期には「環境が悪い」「やる気が出ない」といった言い訳が顔を出し始めます。時間は、誰に対しても平等です。だからこそ、まずは「何を、いつまでに達成するか」という目標を、自分の中に強く描いてください。
【「誰かのために」という力の源泉】
さて、今日はもう一つ問いかけがあります。 「自分のために頑張る人と、誰かのために頑張る人。どちらの成功率が高いと思いますか?」
自分のためにストイックに努力する方が、一見効率的に見えます。しかし、トップアスリートや社会の第一線で活躍する人々は、必ずと言っていいほど「感謝」を口にします。これは単なる礼儀ではありません。彼らは、「周囲の応援をエネルギーに変える力」が、個人の実力を超える爆発的な力を生むことを、経験として知っているのです。
【バスケットボールの教訓から学んだ「環境」の本質】
私には、以前バスケットボールのコーチをしていた時の苦い経験があります。強豪チームとの練習試合で、相手のコーチからこう声をかけられました。 「同じ埼玉県同士、お互いに高め合おうよ」 その時、私はハッとしました。当時の私のチームは、勝ちたい一心でミスを恐れ、ピリピリとした空気の中で選手同士の会話もない、そういう環境で戦っていました。選手たちが持てる力を100%発揮できるような「いい環境」を、私自身が作れていなかったのです。
素晴らしい環境とは、誰かに与えられるものではありません。 皆さんが隣の席の仲間に、あるいはチームメイトに、どのような言葉をかけ、どのような視線を送るか。その小さな「工夫」の積み重ねが、君たち自身の成功を左右する「環境」を作っていくのです。誰かが整えてくれるのを待つのではなく、君たち自身の手で、互いを鼓舞し合える学校生活をプロデュースしてほしいと思います。
【今日から実行してほしい二つのこと】
そのために、今日から二つのことを意識してください。
一つ目は、応援の習慣を持つことです。 仲間の挑戦を笑わず誰かの成功を自分のことのように喜ぶ。人を応援する習慣がある人は、自分が苦しい時に人から応援されます。その応援こそが、君たちが折れそうな時の支えになります。
二つ目は、質の高い対話をすることです。 自分の意見をぶつけるだけの「言いっぱなし」は対話ではありません。特にうまくいっていない相手に対し、ダメ出しをするだけでは進歩はありません。「相手に何を気づいてほしいか」を考え、相手の言葉を聴き、どうすれば「良い結果」が生まれるのかを一緒に考える。この積み重ねこそが、チームを、そして自分自身を強くします。チームとはクラスや委員会も含まれます。
【本当の強さとは】
所沢高校が掲げる「自主自立」とは、決して「孤立」することではありません。仲間と対話し、支え合い、自分も強くなりながら、周囲をも強くしていく。それこそが、皆さんがこの一年で手に入れるべき本当の強さです。
隣にいる仲間は、蹴落とすべきライバルではなく、一緒に未来を切り拓く「パートナー」です。一人ひとりが誰かの応援団長となり、そして誰からも応援される存在へと成長することを期待しています。
一年間、みんなで一緒に頑張りましょう。
滑走路を整えて
校庭の桜が、今まさにその蕾を解き、薄紅色の花びらを風に揺らしています。その傍らで、本校の象徴であるヒマラヤ杉は、相変わらずその太い幹を大地に根ざし、生命力に満ちた青々とした葉を茂らせています。移ろう季節の華やかさと変わることのない不変の力強さ。この対照的な二つの風景に私は所沢高校の「今」を重ねています。
令和7年度という幕が、今まさに下りようとしています。
この一年、私は「自主自立」という言葉の真意を、生徒たちの背中から何度も教わってきました。体育祭での真剣な眼差し、文化祭で見せた圧倒的な創造力、そして日々の学習や部活動で見せる、失敗してもなお前を向こうとする「しなやかな強さ」。127年の伝統が紡いできたこの精神は、決して形骸化したものではなく、生徒一人ひとりの対話と葛藤の中に、今もなお脈々と息づいています。
特に印象深いのは、生徒たちが自ら考え、行動する姿です。所高祭のテーマであった「海底都市」のように、未知の世界を自らの手で形作ろうとするエネルギー。それは、私たちが提供した「知識」や「体験」という材料を、彼らが自らの血肉とし、独自の思考へと昇華させた証でもありました。「考えなさい」と背中を押すのではなく、共に考え、共に悩み、彼らが羽ばたくための滑走路を整える。それが、私たち教職員の果たすべき役割であると改めて強く実感した一年でした。
数日後には、令和8年度という新しい幕が上がります。 卒業していった生徒たちが、この学び舎で得た「考える力」を武器に、それぞれのフィールドで自分らしい生き方を見つけてくれることを。そして、新しくこの門をくぐる若者たちが、先輩たちの築いた伝統に新しい風を吹き込んでくれることを願っています。
この一年、本校の教育活動を温かく見守り、支えてくださったすべての皆様に、心より感謝申し上げます。
【修了式】遠回りでも自分だけが見える景色を
皆さん、おはようございます。
本日、令和7年度の最後の日を、こうして皆さんと無事に迎えられたことを、心から嬉しく思います。
この一年、皆さんは本当によく頑張ったと思います。日々の授業はもちろん、体育祭や文化祭、2年は修学旅行があったね。そして先日の卒業式では、先輩たちを立派に送り出してくれました。
上手くいった喜び、あるいは思い通りにいかなかった悔しさ。その一つひとつの「感情」を、皆さんは自分だけのファイルに綴じてきたはずです。そのファイルこそが、皆さんがこの一年間で手に入れた、何物にも代えがたい財産です。まずは、自分自身の歩みに、詰め重ねた経験に、静かに胸を張ってください。
さて、年度末の節目に、皆さんに一つ考えてみてほしいことがあります。今の世の中は、効率を重視する「タイパ」の時代です。最短距離で答えを知り、無駄を省いて結果を出すことが、スマートな生き方だという考えもあります。
しかし、人生の価値は「効率」だけで測れるのでしょうか。ここで、先月のミラノ・コルティナ冬季五輪での、スノーボード・平野歩夢選手の姿を振り返ってみたいと思います。
4年前の北京五輪で、彼は完璧な技で「金メダル」を手にしました。世界中の誰もが認める最高の結果です。しかし、今回のミラノ五輪で、彼は全く違う壁に直面していました。
大会直前の大怪我。骨折という絶望的な状況。周囲には「今回は無理だ」「休むべきだ」という声もあったでしょう。しかし、彼は出場を選びました。結果は「7位入賞」。メダルには届きませんでした。
もし「効率」や「結果」だけで考えるなら、怪我を押して出場し、1位になれなかったことは「無駄な努力」に見えるかもしれません。しかし、滑り終えた後の彼の表情には、北京の時とはまた違う、深く、静かな充実感がありました。彼はこう語っています。
「人と違う道を行くのは、効率が悪いし、遠回りかもしれない。でも、その遠回りの中にこそ、自分にしか見えない景色がある」と。
皆さんに伝えたいのは、「効率よく手に入れた答え」よりも、「悩み、迷い、遠回りして手に入れた実感」の方が、一生あなたを支える力になるということです。
例えば、数学の難問にぶつかった時。すぐに解答を見て理解するのは「タイパ」が良いでしょう。しかし、一晩中悩み、図を描き、消しゴムのカスを山のように出しながら考え抜いた時間は、たとえ正解に届かなくても、あなたの「思考の体力」を確実に育っています。
部活動で、同じ動作を何百回、何千回と繰り返す地味な時間。
友人と言い合いになり、気まずい思いをしながら対話を重ねる時間。
それらは一見「タイパ」が悪い。しかし、その「無駄」だと思える余白の中にこそ、他人への想像力や、自分だけの感性が宿ります。効率だけで削ぎ落とされた一見無駄なところに人間としての「深み」が隠れているのかもしれません。
この春休み、皆さんに提案があります。
少しの時間で構いません。スマートフォンを一旦置いて、「非効率な時間」を経験してみませんか?目的を決めずに歩く、散歩: 効率的な移動ではなく、風の音や街の匂いを感じる時間。大切な誰かと、または一人で、何もしない穏やかな時間を楽しむとか。
こうした時間は、世の中の物差しでは測れません。しかし、そうした「心の余裕」を自分で作ることこそが、本校の精神である「自主自立」の第一歩ではないでしょうか?
新年度、皆さんは一つ上の学年に進みます。
これからも、たくさんの「チャレンジ」をしてください。自分しか見えない景色を追い求めましょう。それは決して成長が後退していくのではなく、平野選手が言ったように「前へ進むためのチャレンジ」です。
春休み、身体をそして心を丁寧に、ゆっくりと整えてください。
4月、一回り深みを増した皆さんと、ここで再会できることを楽しみにしています。
定時制卒業式:式辞 信頼を受け取り、価値を届ける人へ
武蔵野の木々が春の訪れを告げ、夜の静寂の中にも確かな生命の息吹が感じられる季節となりました。本日、この佳き日に、保護者の皆様、ご来賓の皆様のご臨席を賜り、第57回卒業証書授与式を挙行できますことは、本校にとってこの上ない喜びであります。
ただいま卒業証書を授与した卒業生の皆さん、卒業おめでとうございます。
皆さんがこの所沢高校で過ごした四年間は、決して平坦な道のりではなかったはずです。中学校時代に教室に足が向かなかった経験を持つ人。自分の特性と向き合い、人知れず悩み、生きづらさを抱えてきた人。そして、日中は仕事に汗を流し、疲れを抱えながらも夜の教室へと足を運んだ人。皆さん一人ひとりが、異なる背景を持ち、異なる痛みを抱えながら、それでも「学ぶこと」を諦めずに今日という日を迎えました。
4年前の春、皆さんがはじめて登校した日のことを思い出してください。夜の校舎は、昼間とは違う静けさに包まれていました。期待よりも不安の方が大きかったかもしれません。しかし、皆さんは4年間、その暗闇の中に自ら明かりを灯し続けました。仕事と勉強の両立に挫けそうになった夜、人との関わりに戸惑った放課後。それらすべてを乗り越えて手にしたこの一枚の証書には、数字では測れないほどの、皆さんの「意志の力」が刻まれています。
皆さんが培ったのは、単なる知識だけではありません。自分のペースを理解し、一歩ずつ進む「辛抱強さ」。 他者の痛みを想像し、付かず離れず寄り添う「優しさ」。そして、一度立ち止まっても、再び歩き出すことができる「しなやかな強さ」です。
これらは、混迷する今の国際社会において、最も尊い力に他なりません。今、世界では「効率」や「強さ」ばかりが強調され、分断が進んでいます。しかし、皆さんのように「弱さを知る者」こそが、これからの社会に必要な「対話の架け橋」になれるのだと、私は確信しています。
ここで、皆さんに一つ、心に留めてほしいことがあります。今日まで、皆さんの歩みを支えてくれた人々がいます。仕事での疲れを察し、見守ってくれた家族。皆さんの特性を理解しようと努め、共に歩んできた先生方。そして、同じ夜の教室で、言葉を交わさずとも支え合ってきた仲間たち。皆さんは、多くの期待と信頼を託され、ここまでたどり着きました。
卒業とは、その「信頼」を受け取る側から、自ら「価値」を届ける側へと変わる転換点です。今度は、君たちが社会に対して何を手渡せるか。その真価が問われる番です。
「社会へ貢献する」とは、特別な成功を収めることだけではありません。職場で誠実に役割を果たすこと。自分の経験を活かし、苦しんでいる誰かの良き理解者となること。どのような環境にあっても、自分自身の尊厳を保ち、他者へ敬意を払うこと。そうした、地道で、誠実な積み重ねこそが、社会をより温かく、より確かな場所へと変えていく力になります。
これから先、皆さんは再び困難に直面することもあるでしょう。しかし、忘れないでください。皆さんは、あの暗い夜の道を、四年間休まずに通い抜いた「強き人」であることを。皆さんが持つ、自らを律する強さと、他者を思いやる優しさがあれば、どんな時代であっても、自分らしい道を切り拓いていけると確信しています。
結びに、卒業生の皆さんの前途に幸多からんことを心より願い、また、今日まで見守り支えてこられた保護者の皆様に深く敬意を表し、式辞といたします。
令和8年3月11日 埼玉県立所沢高等学校長 井上 輝也
全日制卒業式 式辞:「自主自立」の灯を、不透明な時代の道標に
武蔵野の面影を残すこの地にも、柔らかな春の光が降り注ぐ季節となりました。 本日、この佳き日に、保護者の皆様、ご来賓の皆様のご臨席を賜り、埼玉県立所沢高等学校 第七十八回 卒業証書授与式を挙行できますことは、本校にとってこの上ない喜びであります。
ただいま卒業証書を授与した347名の卒業生の皆さん、卒業おめでとうございます。
皆さんがこの学び舎で過ごした三年間は、世界が大きなうねりの中で、価値観の揺らぎに直面した日々でもありました。目を世界に向ければ、時に互いの正義がぶつかり合い、言葉が届かなくなるもどかしい現実が映し出されています。昨日までの調和が容易に崩れ去るような、不透明な時代。皆さんはこれから「社会を構成する一員」として、その荒波の中へと歩んでいくことになります。
しかし、私は皆さんの門出を、決して不安なものだとは思っていません。なぜなら、皆さんはこの所沢高校という、自由と責任が共存する場所で、確かな「自律の力」を培ってきたからです。
本校の伝統である「自主自立」。それは、単に自分の好きなように振る舞うことではありません。自分たちで問いを立て、異なる意見に耳を傾け、納得がいくまで対話を重ねる。たとえ効率が悪くとも、自らの手で「納得解」を導き出していく。行事や部活動、そして日々の学習の中で皆さんが見せた、あの粘り強い姿こそが、混迷する社会において最も必要とされる「知性と寛容さ」に他なりません。
ここで、皆さんに一つ、心に留めてほしいことがあります。 今日まで、皆さんは決して一人で歩んできたのではありません。どんな時も温かく見守ってくれた家族。時には厳しく、時には共に悩んでくれた先生方。そして、伝統あるこの学校を慈しみ、君たちを応援してくださった地域の方々。
保護者の皆様、今日、立派に前を見据えるお子様の姿の中に、あの日、あどけない手をつないで歩いた面影を探していらっしゃることとお察しいたします。その慈しみがあったからこそ、生徒たちは「自分を信じる力」を育むことができました。これまでのお力添えに、深く敬意を表します。
卒業とは、その温かな「受容」を糧に、今度は皆さんが自ら「価値」を創造し、社会へ手渡す側へと変わる転換点です。 「社会へ参画する」とは、決して大きな成功だけを指すのではありません。 目の前の誰かの困難に気づき、言葉を交わすこと。 たとえ意見が異なっても、相手の背景を想像し、重なり合う一点を探し続ける努力を惜しまないこと。 そうした一つひとつの「誠実な行動」の積み重ねこそが、分断された世界に橋を架け、未来をより確かな場所へと変えていく唯一の道となります。
これから先、皆さんは予期せぬ困難にぶつかることもあるでしょう。しかし、そんな時こそ、このキャンパスで仲間と試行錯誤した日々を思い出してください。自ら考え、周囲と手を取り合い、何かを成し遂げたあの手応えを、皆さんの心の灯としてください。
皆さんが持つ「自らを律する強さ」と「他者へ敬意を払う優しさ」があれば、どんな時代であっても、進むべき道を切り拓いていけると、私は確信しています。
結びに、卒業生の皆さんの前途が、希望に満ちたものであることを心より願い、式辞といたします。
令和8年3月11日 埼玉県立所沢高等学校長 井上 輝也
ここが、私の成長の原点
模試の判定が返ってきたとき。 あるいは、部活動で思うようなプレーができず、コートを後にしたとき。 私たちはつい、目の前の結果だけで「自分」という人間を測ってしまいそうになります。
でも、本当に大切なことって、その数字や勝ち負けのすぐ後ろに隠れている気がするんです。
「経験は、場数を踏めば勝手に積まれていくもの」 昔は、僕もそう思っていました。 でも、同じ時間を過ごしていても、驚くほど遠くまで行く人と、その場に留まる人がいる。 その違いは、能力の差なんかじゃない。 ただ、その出来事を「あぁ、終わった」と流してしまったのか、 それとも、立ち止まって「あの時、何が起きていたんだろう」と言葉にしたのか。
ただそれだけのことなんです。
模試で間違えた一問。試合でミスをしたあの一瞬。 それは放っておけば、ただの苦い記憶として消えていくだけ。 けれど、立ち止まって、じっとその光景を見つめ直してみる。 「あの時、自分はこう感じて、だからこう動いたんだ」 そうやって自分の心の動きを丁寧に言葉にできたとき、 ただの「出来事」は、世界に一つしかない、あなただけの「経験」に変わります。
焦らなくていい。 振り返るという作業は、過去に戻ることじゃなく、 次の一歩を、これまでより少しだけ高く、遠くへ踏み出すための準備。積み上げた時間は、あなたを裏切らない。 ……なんて言うけれど。 本当にあなたを裏切らないのは、その時間の中にあなたが「見つけた意味」だけです。
さて、今日のあなたは、何を言葉にしますか? その一瞬の立ち止まりが、きっと未来のあなたを助けてくれるはずです。
「安心」の灯台になる
放課後のグラウンドから、生徒たちの威勢のいい声が響いてきます。 最近、保護者の方々とお話をする中で、多くの方が「どこまで口を出していいのか」「見守ると決めたけれど、黙っているのが苦しい」と、切実な思いを口にされます。
私たちはつい、「口出しをしないこと=見守ること」だと思い込んでしまいがちです。しかし、実はそこに大きな落とし穴があるのかもしれません。大人が不自然に沈黙を貫き、ただ視線だけを送っている状態は子どもたちにとってはどう映るでしょうか。時にそれは「無視」や「監視」という無言のプレッシャーとなり、子どもたちを不安にさせてしまうことがあります。中学生、高校生という多感な時期だからこそ、親の「無言」に敏感に反応してしまうのです。
私が考える「見守る」とは、単に黙ることではありません。 それは、「子どもが必要なときに、すぐに声が届く距離にいること」ではないでしょうか。例えば、子どもが順調に取り組んでいるとき。「それで大丈夫だよ」「今、調子いいんじゃない」と、一言だけ添えてみてください。その小さな「安心のサイン」があるからこそ、子どもたちは自分の足元を確信し、さらに遠くへ踏み出す勇気が持てるのです。
「あなたのことを見ているよ」「今のままでいいんだよ」というメッセージを適切なタイミングで投げかける。それは過干渉ではなく、彼らが自走するための「心のエネルギー」を注ぐ作業です。
「見守る」とは、我慢の沈黙ではなく、温かな眼差しを「置いておく」こと。 子どもがふと振り返ったとき、いつでも目が合い、手が届く。そんな「心の安全基地」として、私たち大人がどっしりと構えていたいものです。
今日も、子どもたちの「大丈夫」を支える一日でありますように
ダンスが残してくれたもの
春の足音が聞こえ始めた3学期の後半、今日の体育館にはダンスの音楽と生徒たちの熱気があふれていました。創作ダンス発表会。そこには、普段の教室で見せる表情とは一味違う、表現者としての生徒たちの姿がありました。
【生命の力強さを描いた一年生】
一年生のダンスからは、ストレートな「メッセージ」が伝わってきました。 大地を踏みしめる力強さ、そして森の草木が光に向かってしなやかに伸びていく様子(私にとってはそんなイメージでした)。そんな生命の息吹を全身で表現する姿には、力強く圧倒されるほどのパワーが宿っていました。
【物語を紡ぎ出した二年生】
二年生になると、表現はより深く、洗練されたものへと進化していました。 クラスごとに統一された衣装をまとい、繊細かつ複雑な動きで一つの「物語」を紡ぎ出す。大人数が一糸乱れぬ動きを見せるその瞬間、会場全体が彼女たちが作り出す世界観に飲み込まれるような、静かな迫力に包まれました。
【フロアに残った宝物】
一つの作品を大人数で完成させる道のりは、決して平坦ではなかったはずです。 振り付けを巡る意見の衝突、練習の疲れ、人間関係の悩み……。舞台裏には、華やかな本番からは想像もつかないほどの葛藤や苦労があったことでしょう。しかし、踊り終えた彼女たちの顔は、どれも冬の空のように清々しく、晴れやかなものでした。
ダンスという表現は、音楽が止まれば形としては消えてしまいます。けれど、仲間と共に一つの目標に向かって悩み、笑い、汗を流した時間は、彼女たちの心の中に「宝物」として深く刻まれたはずです。発表会は終わりましたが、そこで得た絆や、やり遂げたという自信を、これからの学校生活の糧にしてほしい。